哲学の道を考えてみた


京都の実家から歩いて少しのとこに、

哲学の道」ってのがあります。

なんで「哲学の道」なんかといいますと、

明治から大正になったぐらいのとき、

西田幾多郎(きたろう)っていう京大の哲学の教授が、この道を散歩しながら、

あれこれと思考していたからなんです。

子供のころ桜の季節になると、よくじいちゃんと朝早くに起きて散歩にいってました。

いい思い出です。


西田幾多郎はこの道でどんなことを考えてたかといいますと、

善の研究

善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)

という著書があるんですが、難しすぎてちんぷんかんぷん、、、


だったんですが、最近になってやっと、
うわ、すごいこと言うてるわと感じてきました。


善の研究」での西田幾多郎の主張は、

純粋経験」こそ実在であるってことなんです。

純粋経験」pure experience とは、


善の研究」弟一編弟一章より

思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。


判断以前の、色を見、音を聞く刹那。

これが唯一の実在。

色を見、音を聞く刹那。

この言葉が、なんかすっきりきもちいい。

当時の西田幾多郎は、

考えて考えて、今の「哲学の道」を行ったりきたりして、

傍からみたら、だいぶ危ない不審者に見えてたと思うけど、

この「純粋経験」の思想にたどりついたとき、

だいぶきもちがよかったやろなー。

一休さんが、ヒラメクとき、

ポクポクポクポクって座禅して、

チーン!!ってなる。

哲学の道」で西田幾多郎もチーン!!ってなったんやろなー



善の研究」序文

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。
個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱するする事が出来た

そして、西田幾多郎の思想は、

純粋経験」から、「場所」という概念に発展します。

我とは、一つの点ではなくしてひとつの円でなければならぬ、

物ではなく、場所でなければならぬ。


いや、ほんまに、旅してて思うんですが、

自分のいてる場所が、

自分の目の前で起きるてる出来事が、

結局、自分なんや。

場所と自分はつながってる!!


西田幾多郎は、そのことを、

「絶対矛盾的自己同一」

って言ってるのやけど、

「絶対矛盾的自己同一」って、、、

理解不能やん!!

小林秀雄西田幾多郎を評して、

日本語では書かれておらず、もちろん外国語でも書かれていない。

って言うてるのがおもしろい。

「絶対矛盾的自己同一」

「絶対矛盾的自己同一」

って言いながら、「哲学の道」歩いてたら、

通報されるんちゃうかな?(笑


いや、でもこの「場所」の思想、すごいこと言うてると思うんですね。


いままで、人間の自己だけを主体として考えてきた結果、

自然とか周りの環境は利用する対象として見てしまい、

環境破壊やらなんやらで、いきづまって今は問題だらけ。


それが「場所」の思想、

周りの環境と自分の生活がつながってるって認識になれば、

ちょっとはましになるんかも?